同じ千葉県の船橋市には「習志野駅」があり、習志野市には「習志野駅」がありません。習志野市の中心駅は「津田沼駅」です。
これには、何か歴史上のヒミツが隠れていそうですね。
東京のベッドタウンとして栄えている習志野市の歴史を紹介しましょう。
■かつての習志野は軍の演習場
古くから馬の放牧場として使われ、明治時代には陸軍の演習場となっていました。
当時の陸軍少尉「篠原国幹」のあっぱれな統率をご覧になった明治天皇の「篠原を見習え」がもとになっているとう説があります。
習志野という地名は、船橋市、八千代市、習志野市にまたがった広いエリアを指したものだったのです。
さらに、習志野市は、谷津村、久々田村、鷺沼村、藤崎村、大久保新田が1つになって生まれました。
津田沼の地名は、人口の多かった谷津村、久々田村、鷺沼村から一文字ずつとって生まれたと言われています。
JR津田沼駅、新京成線の新津田沼駅、津田沼駅があり、市役所がある中心地の駅は、船橋の習志野駅とあわせて、目的の駅がどこか混乱しやすいので注意が必要です。
戦後は、演習場の役目を終え、鉄道連隊のレンガ造りの門が千葉大に受け継がれるなど文教都市を目指し、ベッドタウンとして発達してきました。
■習志野市がソーセージ発祥の地?
第一次世界大戦後、ドイツ人捕虜の収容所があり、1,000人ほどのドイツ人が暮らしていました。
当時、収容所所長を努めていた西郷寅太郎(西郷隆盛の嫡男)が、ドイツ留学を経験していたこともあり、捕虜たちを人道的に扱っていました。
文化的な活動が活発に行われ、オーケストラが結成されて演奏していたという記録が残っています。
また、ソーセージづくりの技術が伝わり、はじめて日本で本格的なソーセージが作られたのが習志野市だったとも言われています。
「習志野ソーセージ」は、地域団体商標として登録され、ご当地グルメとなっています。
■習志野に残される谷津干潟
太平洋戦争後、復興が進み東京のベッドタウンとしてめざましい発展を遂げる中、海岸線は埋め立てが進み、元の姿が分からないほどになり、次々に道路や建物が建てられました。
そんな中、谷津干潟だけがいまも野鳥が訪れ、自然の姿を残しています。
ラムサール条約の保護対象に指定されています。
この土地は、国有地だったため開発が後回しになったのですが、自然を残そうという住民の声が大きくなり、保存されることになったのです。
谷津干潟自然観察センターが設置され、自然に親しむことができる様になっています。
習志野市が、軍事色の濃い街から、自然に触れることができる文教都市へと、変貌を遂げてきたことが分かります。