四街道駅は開業当初、北口しかなく今の南口は貨物専用のホームがあるだけでした。その後はどのようにして、劇的に変化していったのでしょうか。今回のお話は、四街道南口の変化を中心にお送りします。
南口を語る前に・・・
まずは四街道駅の歴史について紹介していきましょう。1894年12月に開業して以来、駅舎は北側の大日寄りに建築されました。南口はというと貨物駅が建てられた程度で、貨車が積み荷を降ろしたり積んだりするためのホームとして用意されていました。当然ながら、運送会社のトラックを止めるベイも存在していましたので、農作物などが各地へと運ばれていったわけです。
駅の南側は民家が立ち並ぶ程度で、現在のめいわ地区などに相当する地域はまだ開発していないため、農耕地が広がっていました。南側に住んでいる人たちからすれば、改札口は北側にしかなく、踏切を渡って対岸へと渡る以外アクセスする方法は皆無だったのです。この状態は1974年の貨物取り扱いがなくなるまで続いたのです。
不便だった駅の南側
南側に住んでいる人たちにとって、今は南口はありがたい存在となりましたが、昔はすごく不便だったということは先に触れたとおりです。貨物ホームがなくなり、利便性を高めるにはどうすればよいのかということで、出た答えが駅舎そのものを新しくすることでした。当時の国鉄からすれば、駅の整備は至極当たり前のことでしたし、限られた予算の中でうまくやっていくことが最大の課題でした。
四街道は当時「四街道町」という自治体でしたが、東京のベッドタウンとして注目され始めたころでしたし、都心では土地が限られて一戸建てなんて夢のまた夢のお話でしたから、郊外へと活路を見出したわけです。西側は多摩地区や、東側は北総地区などが、東京から1時間程度の通勤距離として理にかなっていたわけです。
これらの状況を背景に、四街道町は人口増加により市政へと移行することになり、今の「四街道市」が誕生したのは1981年のことでした。国鉄もこの市制移行をチャンスに駅舎そのものを建て替え、橋上駅舎へと姿を変えて北口と南口の行き来を便利にするということでした。
南口ができたはいいけれど・・・
それでも、すべての問題は解決されていなかったのです。当時の路線バスは北口からしかでておらず、路線バスの一部は南口へと移行する予定でした。橋上駅舎とセットで完成するはずでしたが、地主との対立は続いていました。
長年守り続けてきた土地を手放すのは、残された者たちにとっては不本意でしたし、先祖に対して不安要素しかなかったわけです。それ故に、南口の開発が遅れた要因となったわけです。紆余曲折の末、2010年に整備が完了しここまで来るのに約30年近くの時間を要したわけです。
現在の南口
商業地が比較的多い北口とは対照的に、南口は住宅地の比率が高く商業施設といえば、パチンコ店と歯科医院程度しかないのが現状です。しかし、南側のめいわ地区へと向かうバスターミナルとしての機能を果たしていることから、美しが丘やめいわ、隣の千葉市若葉台地区等の南側の地区に住んでいる人たちにとっては、昔みたいに北口へ回らなくても改札へと行けるというのは利便性に優れたことでした。
まとめ
南地区の開発は駅の南口ができたことから始まったとされており、町の発展に広く寄与していったことを物語っています。
郊外には商業施設や医療施設などが整備され、学校や住宅が増えてきていることから、東京のベッドタウンとして四街道を含む北総地区が機能していることがうかがえます。
四街道駅南口は町の発展と未来をこれからも反映するスポットとして、住民に愛されていくことでしょう。